Glen weyl
ホリスティック(Holistic)はギリシャ語の「holos(全体)」が語源で、「全体性」「包括的」「つながり」「バランス」といった意味
わたしは2018年に出版した『ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀』にて、1人1票制や私有財産制などの現行のシステムを問い直す提言をまとめましたが、いまはその活動を発展させるかたちでブロックチェーンや人工知能(AI)を活用した次世代の社会制度を確立する「RadicalxChange」という団体を運営しています。RadicalxChangeには台湾のデジタル担当政務委員であるオードリー・タンやイーサリアム共同創設者のヴィタリック・ブテリンもボードメンバーとして参加しており、民主主義、市場、データ経済、コモンズ、アイデンティティなどの概念のアップデートを目指しています。 例えば、わたしがこれまで提唱してきたアイデアには、二次の投票(Quadratic Voting、以下QV)や二次の資金調達(Quadratic Funding、以下QF)があります。QVでは、市民一人ひとりに一定量の「ボイスクレジット」が付与され、それを特定イシューに対する投票に使用します。票数当たりその2乗のボイスクレジットが必要で、ある候補者に1票だけ投じる場合は1クレジットの負担で済みますが、5票を投じたければ25クレジットを負担します。ひとつの選択肢に多くの票を投じるコストが高いため、多数派に票が集中する構造を防ぎ、少数派にまで票が行きわたることで多様性をより促進できると考えています。また、QFはこの仕組みを応用して、集まる金額よりも貢献者の数を重視して資金調達や分配を最適化します。 QVは従来の個人主義に適した(多数決などの)原理からさらに進んで、ネットワーク内の人々がホリスティックに協力し合う「多元主義(Plurality)」を促進するアプローチです。多様性がある社会文化的なグループやシステムが、お互いに協力しながら繁栄する社会哲学を、わたしは多元主義だと捉えています。多元主義は“リベラリズム”のように社会集団の進歩を志向し、“自治”や“民主主義”のようにグループ内の一人ひとりに説明責任を負い、共通の目標に向けて異なる社会集団を横断したかたちで協力し合いながらコンセンサスを目指すものです。 3つの政治的イデオロギー
ストラテジーゲーム『シドマイヤーズ シビライゼーションVI』によれば、21世紀は3つの政治的イデオロギーが競合しており、わたしたちの活動は「デジタル・デモクラシー」に分類されます。 テクノロジーを用いて官僚主義や集団組織、抑圧から個人を解放することを目指す起業家主体の「コーポレート・リバタリアニズム」や、汎用人工知能の進化とシンギュラリティによって人類が直面する課題を解決できると信じる「シンセティック・テクノクラシー」に対して、デジタル・デモクラシーは多様性があり、分散したコミュニティが平和的に共存してコラボレーションを強化していくことが特徴です。 ここで重要なのは、テクノロジーとイデオロギーは表裏一体であることです。わたしたちの社会は膨大なリソースを投資して技術を発展させていますが、どのような技術に投資するか、その優先順位をつけることが大事なのです。 例えば、AIは集中化を可能にし、トップダウンのコントロールを強化し、独裁政権に力を与えると考えています。AIにリソースを投入する選択は、その過程で民主主義の基盤を破壊するかもしれません。また、クリプトの研究は社会制度からの離脱や、社会組織が協力し合う紐帯を市場や金融システムに置換することを目指してきました。それゆえに、Web3の主な支持者である加速主義に傾倒する人々は、民主主義の根幹である集団組織の破壊を試みているように見えます。これらの技術やイデオロギーは、どれも民主主義に敵対的です。 わたしは「民主主義に力を与える技術」を見たいのです。デジタル・デモクラシーの支持者は、規模の大小を超えて協力する、民主的に統治されたさまざまなコミュニティによって管理される未来を望みます。ウィキペディアや台湾のデジタルエコシステム、公共財に資金を提供するイーサリアムのエコシステム「Gitcoin」など、参加型の民主主義を実現する技術をわたしたちは目の当たりにしてきたはずです。 残念ながら、民主主義に寄与するテクノロジーへの優先投資をわたしたちは選択していません。多くの投資はAIやクリプトへと向けられており、それを変えたいと考えています。パンデミックやフェイクニュース、環境危機への対応において、台湾が世界でも極めて優れた社会のひとつとなったように、政府は目標やビジョンとして「民主的な未来」を掲げ、資金やエネルギーをそこに投じるべきです。
そのためには政府を説得し、社会運動を団結させ、デジタルテクノロジーが進むべき多元性というビジョンを実現する「フィランソロピスト」として活動していかなければならない、そう考えているんです。